歴史遺産

上ノ国町には90カ所の遺跡が存在し、旧石器時代(約2万年前)から現在に至るまで人が住んでいた痕跡が確認されています。室町時代には松前氏の先祖にあたる蠣崎氏が築いた館跡が複数存在し、当時の繁栄を物語っています。

上ノ国町の歴史

旧石器時代(2万年前~1万年前)

上國寺から道の駅もんじゅへ上る国道の上り口辺りの海側にある「四十九里沢A遺跡」から、約2万年前のナイフ形石器が出土しました。これが上ノ国町の人の痕跡第1号です。この時期は最終氷期に該当し、海水面が低かったため北海道は本州とも大陸とも陸続きとなっており、獲物を求めて移住が進んだ時期とされています。


縄文時代~続縄文時代(1万年前~1,300年前)

地球が温暖な環境へと変わり、上ノ国町でも勝山館あたりの高台にも人が住むようになりました。

約5,000年前には青森県の三内丸山遺跡などで多く出土する「円筒式土器」が上ノ国町でもみられ、本州との交流が活発に行われていたと推測されます。

約4,000年前には地球が再び寒くなる「小氷期」に入って海面が現在の海岸線あたりまで下がり、現在の上ノ国地区や洲崎館跡周辺で遺跡が確認されるようになりました。

約3,000年前晩期には、現在の上ノ国地区に上ノ国遺跡が形成され、ここから出土した爪型文様を特徴とした土器は、縄文時代晩期の北海道西南部を代表するものとして「上ノ国式土器」の名称が与えられました。

本州ではこの後稲作がさかんとなり、弥生時代~古墳時代に移行しますが、北海道では狩猟・漁労が行われていたため続縄文時代と呼ばれています。

約2,300年前、上ノ国町では本州産の鉄製品や「恵山式土器」が使われていました。その後、サハリンから東北地方まで広い範囲でみられる「後北式土器」「北大式土器」が使用されていますが、この時期の遺物が少なく、生活実態がよくわかっていません。

擦文時代(1,300年前~700年前)

本州の奈良・平安時代に相当しますが、北海道ではヘラで擦った文様(擦文)を特徴とする土器を使用していました。また洲崎館周辺では青森県の五所川原産の須恵器が出土していて、本州との交易・交流があったものと推測されます。

汐吹地区の海岸段丘上のワシリ遺跡では、集落の周りを堀で囲って外敵から身を守る「防御性集落」の跡がみられ、この形式の集落が東北地方北部から道南地域の日本海側に広く分布していることから、当時、津軽海峡を挟んで緊張状態にあったことがうかがえます。

平安末期~戦国時代(12世紀~16世紀)

平安時代には、奥州平泉の藤原氏が、平泉→外ヶ浜(津軽半島)→厚真町→石狩低地帯に至る太平洋交易ルートを確立していました。しかし鎌倉幕府を起こした源頼朝による藤原氏追討が行われ藤原氏は滅びることになります。この時、奥州から上ノ国町へ逃れる和人も数多くいたと言われています。

13世紀に入り、本州では十三湊(津軽半島北西部)が本格的に港湾として機能し始めます。上ノ国町では、天の川河口部北岸に広がっていた潟湖を利用した港湾施設(「上ノ国湊」と仮称)が存在したと推定されており、さらに積丹半島の東、余市川河口にある大川遺跡が港湾として成立、また、北東アジア、サハリンなども加えた各拠点と十三湊をつないで、日本海交易ネットワークが誕生しました。その後十三湊から京都へもネットワークがつながり、日本海交易は更なる発展を遂げることとなります。

14世紀に入ると、十三湊を支配していた安藤氏が蝦夷沙汰代官職を巡って内紛(津軽の大乱)を起こし、惣領家であった季長が季久に敗れ、これを機に安藤氏惣領家は本拠を十三湊に置くことになりました。このことにより、北方交易の中心が太平洋ルートから日本海ルートの大きく変わっていくこととなりました。

15世紀には、安藤氏より上ノ国守護として遣わされた蠣崎季繫が天の川南岸の花沢館の館主となり、この地の統治を任されていました。

このころ、和人に不満を持っていたアイヌの人たちがアイヌの少年殺害事件を発端としてその怒りが爆発、1457年、酋長コシャマインが蜂起して大規模な戦いに発展しました。安藤氏による道南支配の拠点となっていた道南十二館のうち、この花沢館と茂別館(現北斗市)以外はすべて陥落してしまいましたが、蠣崎季繫の客将として上ノ国に滞在していた武田信広が兵をあげてこれを破りました。

その後、武田信広は蠣崎季繁の娘婿として迎えられて蠣崎氏の後継者となり、天の川北岸に洲崎館を構え館主となりました。蠣崎季繁没後、花沢館はその役割を終え、武田信広はさらに規模の大きな勝山館を築城して移りました。ちょうどその少し前に安藤氏は南部氏から2度の攻撃を受けて破れ、十三湊が廃絶したことから上ノ国湊があらたな北方交易の拠点として機能することになり、蠣崎氏はその勢力を拡大していくことになりました。

武田信広の子、蠣崎光広は松前大館に本拠を移し、その後、勝山館には城代を置くこととなりました。蠣崎氏はさらに勢力を蓄え、やがて檜山(下国)安藤氏に代わって蝦夷島の代官となり、5代慶広が徳川家康の黒印状(公認)を得て松前藩を成立させ、勝山館はその役割を終えることになりました。

史跡上之国館の年代と変遷

(参考)上ノ国町の中世歴史について

ここに記載されている史実は、北海道でほぼ唯一の中世資料とされている、1646年に松前景広によって編纂された「新羅之記録」によるところが大きいですが、これは客観的立場で編纂された歴史書ではなく、松前蠣崎氏の由緒を景広の立場で作り上げたものであり、蠣崎氏の夷島支配の正当性を強調し、虚飾を加えている部分があることも理解したうえで利用する必要があります。

また、これ以外にこの時代の史料として、1700年代に松前藩の家老を務めた松前広長が編纂した総合歴史資料集「福山秘府」の年歴部において、引用・考証したとされている「松前年代記」という文献資料があります。

勝山館跡(国指定史跡)

勝山館とは、松前藩の祖 武田信広が15世紀後半に築いた山城です。武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・北方交易の一大拠点でした。勝山館跡ガイダンス施設は、夷王山墳墓群と勝...

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花沢館跡(国指定史跡)

15世紀頃、和人・渡党(わたりとう)と称される本州系の人々が北海道南部への進出拠点として築いた道南12館のひとつです。その規模は南北に長さ200m、最大幅80m程...

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洲崎館跡(国指定史跡)

洲崎館は、長禄元年のコシャマインの戦いで勝利した武田信広が上之国守護蛎崎季繁(かきざきすえしげ)の養女(安東政季の娘)を妻とし、同年築いた館であると本道最古の記録であると「新羅之...

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比石館跡

石崎川の河口の南端に突き出た岬の上に「比石館跡」はあります。道南12館のひとつで、嘉吉元年に下北の田名部から渡道した畠山重忠の一族の厚谷右近将監重政が築いた館です。長禄元...

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旧笹浪家住宅(重要文化財)

笹浪家は、18世紀初めから上ノ国で代々ニシン漁などを営んできたニシン場の網元です。旧笹浪家住宅は五代目笹浪久右衛門が建てたと言われており、1857年に家の土台替え、その翌...

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上國寺本堂(重要文化財)

開基を嘉吉3年(1443年)と伝えられる、北海道有数の古刹です。本堂の天井裏の板に「宝暦7年に本堂庫裏一度に建立」と記されていること、さらに虹梁の彫刻模様が18世...

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上ノ國八幡宮本殿(町指定文化財)

上ノ國八幡宮※本殿は拝殿中の奥に収蔵されており普段は見ることは出来ません。文明5年に武田信広が、勝山館内に館神として創建した社です。本殿は、元禄12年(1...

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円空仏

円空は、寛永9年(1632)美濃国(現在の岐阜県)で生まれ、その後東北地方を訪れて『津軽藩御国日記』の記録や広尾町・伊達市・寿都町の円空仏に記される「寛文六年」の年号などから寛文...

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石崎漁港トンネル(国指定登録文化財)

比石館跡下に位置し、昭和9年に北海道庁中村廉次漁湾課長の設計で建設されました。長さ45m、幅9mの半円形の断面コンクリート造りのトンネルで、世界的にも珍しいものでした。...

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